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ああ、煩悩の極み、創価ヒエラルキー

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写真は「博士の独り言」より、「中朝国境の川辺で遊ぶ無邪気な北の子供たちも、「人間サファリ」の標的になっているという(AP)」。

皆さま、こんにちは。

山口県光市の母子殺害事件では、被告の元少年に対して死刑の判決がでましたね。どうしようもない元少年はおいといて、その弁護団は控訴するとのことです。差し戻し審の公判であれほど非難を受けたのに、はずかしくないのでしょうかね。

恥をしらないといえば、中国人の国内外での、フランスに対するデモが挙げられますね。全く、 “逆ギレ”としか言い表せない。フランス国旗に逆マンジを書き込み、フランス系スーパーの不買運動を起こす。この分ではオリンピックはどうなるのか、選手の安全は一番大切なことですが、競技自体が公正に行われるのか心配になります。中国の国威の宣伝に使われるのではないでしょうか。

道理を無視して、なにがなんでも騒いでねじ伏せようとする中国のデモには、民意の低さ感じると共に、ナショナリズムの危険性を感じてしまいます。右翼的思想のナショナリズムや全体主義ばかり気にかけて、そうでないものには目をつむる、そうした団体や評論家には、今回の中国の出来事は、良い薬となるのではないでしょうか。

さて、同じような全体主義を得意とする創価学会。このブログのリンクにもある「聖教新聞:今日の一面」などを見ると、池田宣揚と、各地の集会での盛り上がった様子、そして「寸鉄」などの罵倒、中傷のことば。写真に出ている集会でのたくさんの笑顔には、気味の悪さを感じるのは、当然ですよね。

そんな全体主義の組織が目標とするのは、制覇であり、創価学会の場合は総体革命の完結であることに他なりません。小多仁 伯氏の「池田大作の品格」(P146)には次のくだりがあります。

また、昭和40年の7月26日付けの聖教新聞には、
「国が最高に繁栄した時が高宣流布の時であり、一国のためにも、国民のためにも最高の時です。そうした背景のもとに高宣流布の儀式が行われるのです。それが創価学会の究極の目的の一つです。その時に不開門(あかずのもん)が開く。一説には、天皇という意味もありますが、再往は時の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、時の法華講総講頭(当時は池田大作)であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として言っておきます」 と池田の自信が漲って(みなぎって)います。


はぁ~~~? 「仏法の方程式」だと???   つづけて・・・

このころ「舎衛(しゃえ)の三億」論が学会組織で盛んに語られていました。三分の一が学会員、三分の一がシンパ、残りの三分の一が一般人という構成になった時、高宣流布は達成するというものでした。

うん?・・・ で、 かなり気になるのは、なぜ、高宣流布の達成が三分の一ずつなのか???という部分ですが、本当に良心でやっているのなら100%で達成でしょう。それともなんですか、創価学会では意に従わない者を残し、つまりは見下す対象を残しておかないと、会員の士気を保てないのですか?

私は創価学会の本質がここにあると思っています。つまりは差別した階級の発展と維持であり、その目的は教えを広めることではなく、ヒエラルキーの完成であり、その快感に心酔した者たちの煩悩の極みであると。実際、このことを念頭に創価学会問題を考えると、当てはまることばかりではないでしょうか。

話を今の中国に戻すと、ブログ「博士の独り言」の記事でも取り上げられていますが、産経ニュースに次のような記事があります。

中国非道! 北朝鮮で「人間サファリ」ツアー  (←クイックを)

住民を動物に見立て金稼ぎ

 中朝国境地帯で、北朝鮮の住人を動物に見立て、たばこや食べ物を投げ与える「人間サファリ」と称するツアーが現れた。中国人が北の警備兵と結託し、観光客から料金を徴収して行っているという。北京五輪を前にチベット人権問題で激しい批判にさらされている中国だが、北の困窮につけ込み、人間を動物扱いして金を稼ぐ、とんでもない人権感覚が明らかになった。


まったく、もう、感想も何も、言葉すら失う記事ですが、池田創価学会が親しくする相手は、胡錦濤の中国であり、チャウチェスクのルーマニアであり、ノリエガのパナマであり、ろくでもない国ばかりではないか・・・そんな創価学会が非学会員は勿論、学会員ですら、内部でのヒエラルキーにより差別されていることを、早く知ってほしいのもです。


<今日の関連サイト>
中国非道! 北朝鮮で「人間サファリ」ツアー 

「博士の独り言」より、「人間サファリ一考」

「舎衛(しゃえ)の三億」
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創価学会の本質は広い視野でみよう

皆さま、こんにちは。休みを宣言しながら、のこのこと出てきました。

今日、テレビでニュースを見ていると、ロンドンに着いた聖火が巡回中に、現地の人たちによって妨害されていましたね。その光景を見ての感想は、人様々なのでしょうが、私には、その妨害しようとした人にも正当性があるように想えてなりませんでした。

その妨害しようとした人たちは、法律的には確かに不法行為なのかもしれません。ですが、彼らの行いには一定のルールが守られていることを、ニュースで見る限りでは確認することができます。

それは彼らの行為が対象としたのが、聖火であり、人を傷つけることを目的としていないことです。一見、無秩序でゲリラ的にみえる行為にも、人権に対して培ってきた、というか、闘って勝ち得た西欧ならではの人権に対する配慮と成すべき主張を、一定のラインを超えない行為にその高さを見た想いです。

これに対して、そのトラブルの近くでは、英国在住の中国人たちも自国の正当性を主張するデモが行われていましたが、その中の一人の女性は「西側社会の報道は真実を伝えていない」などといった声を張り上げていました。その姿は、私のように日頃から創価学会の存在を肌で感じている者にとって、学会員と重なって見えるのでした。同質であると。ロンドンという比較的言論が自由な土地にいて、それくらい感じ取れないのかという想いもします。

まぁ、ずい分、乱暴は比較と指摘される方も多いことでしょう。でも、中国、韓国、北朝鮮の外交姿勢というより本質というか、そうしたものと、創価学会のそれも重なるものが多いといえませんか?

今回の一連のチベット騒動で、中国政府はいったんは外国メディアを締め出しながら、その後、落ち着いた地域のみをコースに、外国メディアを受け入れ、チベット人の暴動による被害者のインタビューを聞かせました。これは外国のメディアに、外側から、中国有利のイメージを報道させようとした思惑ありありで、かえって、現在の中国政府の発想の幼稚さと傲慢さを外国に示す結果となってしまったようです。しかも、その後が更にひどく、中国国内で西側メディアに抗議する署名がどれだけ集まっているとか報道が流れる(流す)始末です。これらついては、中国政府の性質の悪さを強く感じてしまいます。

ところで、創価学会でも同じような手法を用いていますね。「外から見た創価学会」という本が出版されていることをご存知ですか。しかも続編まで出ているという。私も勿論、くだらないので読んでいないのですが、何でも、学会員でない有名識者が、“ちょうちん持ち”となって、これでもかと池田大作や創価学会を褒めまくるといった内容のようです。こちらの方は一般書店ではほとんど売ってないので、もっぱら内部向けといえます。しかし、外部の力を利用して、組織の安泰を図ろうとする姿勢は、単なる同じ姿勢というより同じ本質と言った方が妥当といえますね。

話を中国に戻せば、そうした内部での署名を集めて、その国民の声を発信しても、実際にはその政府の元では、土地の収用で家を失ったり、日本では考えられないような時間を働かされる労働者の悲鳴が絶えないのです。それが創価学会の内部の悲鳴と重なるといえば、これまた、あまりにも比喩がありすぎるでしょうか。

創価学会については、私は外部のものにとっても、また内部において組織に疑問を持つ者にとっても、創価学会の本質を知ろうとすることは、その教義を深く知ることではなく、関連するニュースを客観的に知ることが近道だと想っています。池田大作がどう言っているかではなく、どこのどんな人と付き合っていたかとか、聖教新聞ではきれいごとが書かれているが、実際、地元の幹部からはどんな指示が出ているかとか、そのように考えていけば、いっていることと、やっていることのギャップはあまりにも大きいことに気づくはずです。創価学会問題は善悪を論じるものではなく、その大きな弊害を気付き、対処できるかではないでしょうか。



追伸

記事が更新されないのに、ここを訪れてくださる方々へ

本当にありがとうございます。すいませんが、コオロギ丸はもうしばらく休む予定です。宜しくお願い致します。

ところで、最近見るテレビで「あれ!」と思うことがあります。それはマチャミこと久本雅美の髪型が変わったことです。はじめ、それがマチャミと分からないほどイメージが変わっていました。清純とはいえないまでも、あまりにも清楚な髪型に、気づいた瞬間、「おや」と声をあげたくらいです。以前、次の衆議院選挙に出馬のニュースがあったマチャミ。ついにそれに備えてイメージ作りをはじめたのかな~? だとしたらずい分、用意のいいことですね。公明党(=創価学会)もなりふりかまっていられないのでしょう。次の選挙はマチャミで勝負??? 福田内閣の支持率も危険水位に入ったようです。夏のサミットまでもつのかどうか。それを踏まえて公明党(=創価学会)もいよいよ臨戦態勢に入ったのでしょうか?

学会流「如是我聞」て、なんだろう?3

皆さま、こんにちは。だんだん春らしくなりましたね。どことなくこころが和らぐ季節ですね。

さて、今回も、しつこくこのタイトルです。どうぞ、お付き合いください。

前回の記事のお詫びでも書いたのですが、この「学会流如是我聞」の解明など私には荷の重すぎるテーマでした。知識不足でした。ただ、現在の創価学会幹部がその思惑どおりに、正常に考えれば理不尽といえる行動を強いる場合に、根本として「学会流如是我聞」があるのなら、その手法を詳しく知ることで、創価学会の本質を探れるのではないか、と考えたのです。もはや創価学会が仏教の精神を実践しているなんて、シンパといわれる学会員以外は認識していないのです。

学会員が上から指導を受けたり、又は学会員が一般の人に働きかけをする場合、あるシチュエーションがあることは多くの人が知っていることです。それは、はじめからそうせざる得ないよう、体制を整えて相手に接することです。例えば囲い込みの折伏がそうですし、入ったら入ったで、先輩学会員に、自己否定の強要と盲従した場合の賛美の嵐がそうですし、大会にでれば出たで、池田賛美とそれへの拍手喝采があります。そうした例は創価学会の十八番芸といえませんか?それらは決して自然に起こった現象ではなく、ある意図の上に、訓練された成果なのです。

そうした訓練を行い、人の本来の感性をずらし、仏罰論で人を縛り上げ、挙句の果てには、人を精神病に陥れても、組織を省みないのが今の創価学会です。そんな姿には仏教とはかけ離れたものを本質に感じてしまいます。

さて、そんな創価学会の意思伝達手段である「学会流如是我聞」なのですが、残念ながら学会に席を置いたことのない私には、学会員同士のそれを体感していません。ですので、私が職場で体験した、学会員と一般人のことを書いてみたいと思います。ただ、私の職場の学会員は、元か現役の在日コリアン系が占めていますので、一般的な学会員より、その傾向が強いことを前置きしておきます。

一般の人に働きかけをする学会員というのは、自分が学会員であることを前置きして、話をする人は極めて少ないでしょう。また、学会でもそのように指導しているようです。なので、はじめの働きかけは、世間話などが多いようです。そこで話を合わせ親しくなり、友好的な関係ができてくると、少し、相手の意に沿わない話をして、違和感を与えます。今まで親しくしていたこともあり、相手は意に沿わなくても、相槌を打ったり、笑いを浮かべたりします。この時点で少し、その人はずらされたのです。そうしたことを繰り返し、相手が話しのペースに乗るようになると、今度はその人のプライバシーのことに関心を持つようになります。そこでうっかり話してしまうと、それは相手を更にずらすための担保になってしまいます。私の職場の場合ですと、直接その学会員からプライバシーのことを攻めるより、他の学会員に回して攻める場合が多いようです。プライバシーを最初に聞き出したものは、相変わらずいい人を装っていますが、私には聞きだした方も、攻めた方も同じ一つの生物のように思えます。つまり、右手で相手の胸ぐらをつかみながら、左手で頭を撫でるといった感じです。しかし、その巧妙さといったら、学会について知識のない人なら、いや、知識のある人でも引っかかっても不思議ではありません。

なかなかまとめ難い今回のテーマですので、なんだか飛び跳ねた記事になってしまいましたが、そろそろ、私なりのまとめをしたいと思います。

結論を言えば、「学会流如是我聞」とは相手をずらすための手法の一つであり、それは学会内においても、更に学会員を動かすための道具になっているということです。元々の意義は{「学会流如是我聞」て、なんだろう?1}で述べたとおり、とても高尚なものなのですが、創価学会はそれを悪用しているといえます。

{「学会流如是我聞」て、なんだろう?1}の追伸のところでも書きましたが、池田大作は安倍総理(当時)に「学会流如是我聞」を仕掛け、安倍総理が応じたことに得意満面になっていたようです。安倍総理をずらしたつもりになったのではないでしょうか。そうした創価学会の本質は、仏教の精神の実践ではなく、ヒエラルキーの完成であり、常に見下す人がいないと組織が成り立たないといった精神的病理ではないでしょうか。

学会流「如是我聞」て、なんだろう?2

お詫び
今回は前回の続きですが、そのとき、例としてあげた1から3について、再び考えることを約束したのですが、私の力量不足で取りやめることにしました。申し訳ございません。それで、今日は「学会流如是我聞」について思いつくままに書いてみたいと思います。

私は創価学会を思うとき、不思議に感じることがあります。それは、あれだけ大きな組織が、会員を動かすにあたり、レジメや指示書といったものもなく、全国、統一的に行えるのはどうしてなのだろうか?ということです。

「池田大作の品格」を読んで、「学会流如是我聞」というのを知り、それが答えではないか、という想いが強くなりました。これは、学会にどっぷりと浸かっている人には、かえって気づかないことではないでしょうか。それを「マインドコントロール(以下MC)というのだ」といわれれば確かにその通りですが、私のように学会に強い関心を持つものにとっては、そのひと言では終われないのです。創価学会というのは、組織の意図や思惑といったものを隠して、人を動かそうとします。逆にいえば「学会流如是我聞」から組織の思惑を知ることができると思うのです。

創価学会の「学会流如是我聞」とは、主に口コミで上から下へ流れる指示やうわさなどではないでしょうか。指示については勿論ですが、うわさについても、ある思惑をもって、トップから意図的に流されていると考えるべきだと思います。私は過去に学会解散派と自認される学会幹部の方とネットでお話したことがありましたが、その方が仰るには、創価学会というのは学会員の方向を見直すようなときに、先ずうわさを流して、下の方まで時間をかけて浸透させて、その反応の受け入れ度をみて、発表したり、修正したりするのだそうです。

これらの事例にはどんなものがあるでしょうか。創価学会に籍を置いたことない私には示しにくいのですが、例えば池田大作が永遠の指導者であるとか、学会の教義の変遷などが、「学会流如是我聞」の成果といえるのではないでしょうか。それらが確立するまで、口コミもあれば、聖教新聞による宣伝もあり、徐々に学会員の思考をずらしていったといえないでしょうか。

「学会流如是我聞」とは人の思考をずらすための手法であると思います。そして、何か問題があるときはトカゲの尻尾切りのように、下に責任を押し付けてサヨナラのひと言です。池田大作(=創価学会)が、学会員が犯した事件で、組織として責任を認めたことがあったでしょうか。池田大作が言論出版妨害事件(1970年)で、謝罪会見をし、国民の前に頭をさげた様子が、昨年、「TVタックル」で流れていましたが、その時、池田は2度と謝罪しないことを誓ったのではないでしょうか。姉歯さんの事件や、元サザンの大森さんとその奥さんの事件での創価学会の見解は、「もう、学会員ではありませんから」でした。学会員による選挙違反が問題となっても、警察に捕まるのは末端の学会員のみです。

創価学会は独自の「如是我聞」で、人を都合よく動かします。反対に下の人は、統監カードや、選挙のF票の成果や、はたまた自分の悩みや誓いに至るまで、紙に書かせて提出しています。これはもう、完全な一方通行といえるのではないでしょうか。多くの学会員は、下から上にあがった書類は、将来、人を拘束するための、担保にされることを知らないのですね。

学会流「如是我聞」て、なんだろう?

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皆さま、こんにちは。

最近は、天気も目まぐるしく変わり、体調の管理が大切ですね。しかし、寒さの次は花粉の襲来ですか。私もこれからの季節は苦手なのです。なかなか花粉症て直らないものですね。

さて、今日は学会流「如是我聞」(にょぜがもん)について考えてみたいと思います。

小多仁 伯氏の「池田大作の品格」はどこを読んでもおもしろいのですが、今日はその中でも「これは!」と思うものを書いてみたいと思います。小多仁氏によると、創価学会には、「学会流如是我聞」というのがあるのだそうです。

元々、「如是我聞」とはどんな意味なのでしょう。大辞泉によると次のように書いてあります。
【仏語。このように私は聞いた、の意。経典の冒頭に記される語。経典中の釈迦(しゃか)の言動を、経蔵の編集者とされる阿難が聞いたことを示す言葉。】
なんとまぁ、元々は高尚な言葉なのですね。

ところが、創価学会には独自の「如是我聞」があるのだという。小多仁氏はそれを「学会流如是我聞」と呼んでいるのですが、では学会流となるとどんな風に使われるのでしょうか?これについては小多仁氏は「池田大作の品格」(P175)の中で次のように書いています。

学会流“如是我聞”は、それこそ全国各地で、池田大作の指導を幹部会などで間近で聞いた人たちが何人か集まり、忘れないうちに書き残したものを他の人たちに伝えるのです。

続いて、池田大作のまわりでされる「学会流如是我聞」の光景について、次のように紹介しています。

ですから、池田大作の前では小さなノートをいつも持参しており、池田が話すことを書き損じないよう注意をして臨むのです。初めてこの光景を見た人は、異様に映るはずです。池田大作は幹部が一斉にこのポーズ(ノートを出して書く)を取ると、益々、得意になって話し出すのです。

どうでしょうか。私はこの短い文書の中に、創価学会の本質というべきものがあると思います。著者の小多仁氏も、それを言いたかったのではと思っています。では私はここから思いつく創価学会の本質について書いてみます。

その1:メモを書き取るのは、書き手の感受性が主体となります(あくまでメモを取らせる側にとって は)よって、池田大作がどう言おうと、それはそのように書き手の問題である。

その2:これを人から人へ、途中からメモから口コミに変え末端まで行えば、レジメもなく、問題があった場合、証拠を残さず、統一的に末端の学会員を動かすことができる。

その3:学会流「如是我聞」の反応から、相手の服従度が計ることができる。これは学会員が世間一般人に対して行うこともありますよね。また、池田や幹部にとっては、その反応や進み具合から、組織の情況を知ることができる。

大体、こんなところでしょうか、まだあるかな?創価学会は知れば知るほど、あまりのおぞましさにゾッとする組織です。プロのジャーナリストでさえ、そういいます。まだまだこんなものではないはずです。次回の記事では、更にその1から3に挙げたことを考えてみたいと思います。みなさんも是非、考えてみてください。



追伸
この「池田大作の品格」の中で、小多仁氏は「池田・安倍晋三総理大臣(当時)会談」のことを書いています。その会談でも、“学会流如是我聞”があったのだそうです。それはもう信じられない、の一言です。これが事実であれば(勿論、事実なのでしょうが)、自公の連立で、自民党はもう、完全に創価学会の毒が回っているようです。安倍総理との会談を終えた池田大作は「安倍は、もうこちらの言うとおり、心配ない」とバラしたのだそうです。池田は「学会流如是我聞」を通して、安倍総理の恭順を計っていたのです。勿論、それは社交辞令的なポーズではあっても、許されることではないでしょう。ひとつ譲れば、2つも3つも踏み込んでくる手法は、創価学会のお家芸ですが、韓国・中国の外交手腕と同じではないでしょうか。池田・安倍会談の真相は「池田大作の品格」の中で詳しく書かれていますので、是非、この本を買って読んでください。絶対に損のない一冊です。
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コオロギ丸

Author:コオロギ丸
ようこそ、嫌創価流へ
創価学会と学会員はある意味で反面教師である、という方がおられます。その通りではないでしょうか。
創価学会並びに学会員をウォッチすることは、世間一般人にとって、必ず役に立つと確信します。
さあ、一緒にウォッチしませんか?

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