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創価学会員の活動の原動力とは 2

前回の続きを・・・

そうした一対多数の折伏や、集会などでのゲストへの囲い込みなど、何度も書くけどフェアではない。また、その逆の話は聞いたことがない(異例的な話はこれほど大きな組織だから、あって当然なのだが)。また、そうした対象とする人を多数で囲む場合、事前に対象となる人がどんな人なのか、事前に話し合って、その人の情報(きわめてプライベートな)を多数となる者、全員が掴んでいるのが創価学会流だ。

つまり、誘う方は対象者を品定めできる立場に立つことができる。これからこの人をどう攻略しようかと、みんなで話し合うことは、反道徳的な快感を得るのだろう。反対に対象者は、なんとなく来てしまったけれど、知らない人がおおいなぁ~、これからどうなるんだろう?などと不安な気持ちになり、それを感じ取った学会員たちはさらに優越感に浸りながら、話を切り出す、といったところだ。ろくでもないことだけれど、これに味をしめた者のなかには、その優越感が忘れられないのではないだろうか?この優越感は本人が自覚していない場合が殆どだろうけれども。

だからといって、そうした“囲い込み”がうまくいかないのが、学会員の現状だろう。そんなことが続けば、自分自身に疑問をもたげる学会員もでてくるだろう。これは組織上まずいことだ。そこで始まるのが、罵詈雑言である。囲い込んでも首を立てに振らなかった人を罵倒してもいいし、他に共通の話題となる者でもいい。肝心なのは、自分達のしていることを省みないことなのだ。省みた途端、自己否定の嵐が待っている。私は創価学会員が恐れるのは、仏罰論や地獄論ではなく、これではないかと私は思う。普段、学会員と接すると、このことを強く感じてしまうのだ。

こんなことから、聖教新聞の座談会記事は、そうした行き詰った学会員への、猫じゃらしのような気晴らしであり、慰めであり、カンフル剤として書かれているのだと思っている。どうだろうか。

題名の「創価学会員の活動の原動力とは」については、創価学会員であることでつかめる、偽りの優越感にしがみつこうとする“低俗な煩悩”と、結論づけたい。
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創価学会員の活動の原動力とは

創価学会員はなぜに、その組織の言うとおり、活動するのだろうか?F票集めに、折伏、などなど。これは学会に籍を置いたものには、到底理解できないことだ。池田先生のため?功徳によって宿命転換を図るため、日蓮の唱える“罰”が怖いため?これらのこともあるとは思う。しかし、このようなことだけで説明がつくのだろうか?どうも合点がいかない思いなのだ。ここに来られる皆様はどう思っておられますか?

聖教新聞の四面座談会は、よくブログでも取り扱われている。あまりにも汚い罵詈雑言は、世間一般人には聞くに堪えない内容だ。こんな記事を載せれば、聖教新聞社自体(これは商業登記上法人としては存在していない、実際には創価学会新聞部といったところ)の信用も落とすだろうと思うけれど、そんなことはおかまいなしだ。ではなぜこのような記事を続けなければならないのだろうか?

ここのところに、学会員の活動の原動力が現れている、と私は思うのだ。四面座談会では、創価学会の大幹部が揃って学会に異を唱えた人を、これでもか、といわんばかりにけなしているが、槍玉にあげられる対象はいつも一人に対して、複数の人間がよってかかってけなしまくるのだ。これではフェアではない、などと思うのは世間の人であり、これを活力に変え、明日また活動をがんばろうとする学会員にはカンフル剤となっているのだろう。

ではなぜ、これが活力となるのだろうか。ここで注目したいのは、四面座談会の図式が、世間でよく問題となっている学会員とのトラブルの時の図式と似てはいないだろうか?つまり、一般の、いや末端の学会員が行っている活動も、相手一人に対し、学会員数人と言う図式だ。これはよく近所の人を折伏する時に現れる。他にも、うっかりと集会などに足を運んだばかりに、そうした目にあったりする。        つづく

陰湿な手法

創価学会員による被害にもいろいろあると思うけれど、ここ数年の傾向としてはどんな特徴があるのだろうか。この間、顕正会の会員が強引な勧誘で逮捕されたように、かつて創価学会は無理やりな拡大路線を進むあまり、強引な折伏を行って、かなり社会的イメージを悪くした経緯がある。そんな行き詰まりから、ソフトな対話路線に切り替えていくわけだけれど、ソフトになったからといって、世の中を一色に染めてしまおうという、本来の性質は変わってないようだ。

それどころか、強引な手法を隠して、アンダーグランドと化した手法は、かなりの陰湿だ。かえって、非難しづらくなってしまった。それは頂点にたつ池田大作から末端として“その気”になっている学会員までいえることだと思う。

では、なにが陰湿なのか を言えば、彼ら自身が、ある対象となる者に対して、ある程度親近感が生まれるまで、自ら学会員であることをなのらず、隠しておくこと、その過程での対象者の反応を見て、その後の対応を変えることなど、中にはひどいイヤガラセをする場合がある。要は仏教対話でもなんでもなく、最終的には自分達に従うかどうか、というだけなのだ。そのような連中に宗教者を名乗る資格などあるわけがないだろう。

追伸

「フォーラム21」で、今、連載されている白川勝彦氏の「創価学会党化した自民党」を読んでみて、氏の創価学会から受ける陰湿な行為については、氏の“心苦しさ”を感じてしまう。その心境は、回りを真綿で締め付けられるような、かといって傷も受けず、そのまま放置されて、様子を眺められているようなものではないだろうか?私のようなスケールが小さい者でも、されていることの本質は同じなんだな、といった感想だ。しかし、白川氏はそのために落選したのではない、と否定している。

対象物

なんでかなぁ~、最近記事が書けない。これは能力もないのに、あれやこれや考えすぎになっているからだろう。というわけで、もっと気軽に書くことにきめた。アクセスの数も減ってしまったけれど、それでも来てくれる人がいる。申し訳ないと同時に、本当にありがたい。感謝。

さて、3月に入り、統一地方選挙もまじかとなった。私の職場の学会員さんもへとへとに疲れているようだ。普段職場では学会員であることを隠しているので、職場関係では活動はできない。活動は仕事が終わってからやっているようだ。だけれど、どこで、どんな活動をしているのかはわからない。

ただ、普段から職場の学会員に嫌われている私として助かるのは、彼らの“煩悩消化”の為の対象物が、職場から離れてくれることだ。恐らく参議院選挙のある7月までは、ここの職場も静かになるだろう。実にありがたいことです。

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コオロギ丸

Author:コオロギ丸
ようこそ、嫌創価流へ
創価学会と学会員はある意味で反面教師である、という方がおられます。その通りではないでしょうか。
創価学会並びに学会員をウォッチすることは、世間一般人にとって、必ず役に立つと確信します。
さあ、一緒にウォッチしませんか?

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